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僕が「元赤軍派議長」の看板を掲げ続ける理由   
---30周年に際しての連合赤軍問題私的総括   塩見孝也               (2/5)

 僕には赤軍派でたおれた望月上史をはじめとする同志達、そして「連合赤軍問題」での12名の同志達がいます。
赤軍派系で言えば5人の同志達がい、沢山の傷ついた同志達がいます。

 そしてこれらの人々の思い、魂を凝集した人として「連合赤軍問題」でたおれた同志遠山美枝子や山田孝が居、やや違った星として同志森恒夫が居ます。

 この3人の人々は亡くなっていった経緯こそ違え、僕と共に生き、僕を信じその為に生命を賭した、僕と最も近しく時が経てば経つ程、より近しくなってきた僕にとって掛け替えのない同志達です。

 このようにして亡くなって彼岸に逝った人々を日本人は古来から神として祀ってきたと解するなら、この3人をはじめとする人々は紛れもなく僕にとって、神と言えます。

 僕はこの3人を内心に於いて神として祀ってきたし、これからも祀ってゆきます。
遠山は赤軍派フラクション結成以来の同志であり、以降常に第一線に立ち闘い続け、一番しんどい時期、一番人がいやがる部署を担い続け、困難な際前面を背負い、勇敢で品性高く崇高な精神の持ち主故に敢えて「山」に行き、理想に殉じました。

 女性でありながらもコマンドとして生きぬかんとし、恋人の高原の意も体しつつ闘わんとしました。
僕にも何度も面会に来、いろんな報告をもたらし、その態度は獄外に居るときと終始かわらずで僕を信じてくれました。

 山田は彼を僕が学生運動に引き入れた人であり、以来赤軍派結成の際も真っ先に関西労働者部分として僕を支持し、馳せ参じ、以降も「連赤」でたおれるまで赤軍派の基幹部分を担い、僕を信じてくれ、共に闘い続けてきた人です。
 病弱ながら理性、知性の人として、その道理の赴くところに忠実で、病気の最中にも関わらず最愛の妻子を残しても敢えて「山」に出征した。革命的知識人と言う言葉が死語でなかった時期において、彼こそその名を冠するに相応しい人物はなかったのではないでしょうか。

 森には申し訳ない、辛い思いをさせたと言う哀惜の念なしに彼を思い浮かべることは出来ません。余人は彼と他の二人、その他の亡くなった同志達と区別を付けるかも知れないが僕にとっては僕を信じ、共に闘いたおれた同志である点で何の変わりもないのです。このことを今こそはっきり言わなければなりません。

 彼についてはいろんな気質的な面、指導者としての才質、力量の面でいろんなことが言われておりそれをあながち否定するつもりは僕もありません。しかし一人の被指導部としてあったなら十分に彼も又勇敢な革命家であった、ことは明らかです。

(2/5)
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