>>TOP >>BBS
 

 

連合赤軍総括第三弾     

連合赤軍総括第三弾
(2)野合「新党」結成という組織問題を介在させるとより「共産主義化」の本質が分かる。
------「共産主義化」は思想運動という衣をかぶせた同志殺しの「粛清」である。
 「共産主義化」の本質をどのように捉えるか、そのことによってその原因も違ってくる。
従って「連合赤軍問題」の原因も諸説紛々となる。
 この分野では、政治路線、軍事路線の面での革命左派の中国式「反米愛国路線」、毛沢東遊撃戦争路線の観念的適用、「山岳根拠地路線と銃を軸とする殲滅戦路線」、山岳根拠地防衛のための「脱走者の処刑」、これらの根源は指導者に取り憑いた日和見主義、利己主義の保身を源とする自己絶対化、スタ−リン主義の許容等を既に指摘した。
 「連合赤軍問題」はこの延長であり、その質的飛躍としての、その全面開花と言い得る。
 しかしこの認識は政治、思想、軍事上のことで組織上の問題、つまり野合「新党」でっち上げという組織問題を媒介させると、永田・森の利己主義、自己防衛の権力強化に基づく「粛清」であったことがよりはっきり見えてくる。
 政治は常に集団の利益、要求を実現すべく指導部、指導体制を要求する。指導者がその集団の利益、要求を守もる際、指導者個人の保身が常につきまとうのは必然である。
 当然にも指導者が公として指導権を発揮することとと、その指導者の保安は一体であり、そのことを否定する人はおよそ政治が分からない人である。しかし、その保安とその指導者の利己主義とは全く別のことで、そのことに隠れて利己主義を実行すればそれは糾弾されるし、その人はもはや指導者ではない。
 軍事、戦争の場合、集団的行動が日常を越えて格段に要求される条件では、指導者の統率力が最高度に問われ、下からの要求、民主主義が制限される。このような場合、一時期、指導者の指導権と利己主義が渾然一体となり、公に隠れて利己主義が見えにくくされる場合がある。政治の要求と指導者の保安が、利己主義に傾く紙一重の状況さえ生まれかねないと思う。
 さて以上を踏まえて、「共産主義化」の本質をどのように捉えるか、そのことによってその原因も違ってくる。
従って「連合赤軍問題」の原因も諸説紛々となる。
 「山からの脱走者を防ごうとした」これは重要な的の1つを衝いたものだが、極めて現象的な指摘である。
 2名「処刑」の場合、山岳根拠地防衛の為に最大、最重要な原因である。しかし新党の場合はこの要因に加え、さらに野合の要因が加わりもっと複雑になる。
 「何が何でも銃撃戦をやろうとして、"日和見主義部分"を"粛清"した。」「思想的に"弱い"部分を教練、援助しようとして、結果として殺した。一種の思想運動だ。だから思想運動に暴力を持ち込んだのが問題である(植垣)」これは、森や永田の自己弁護の見解である。
 これだと殺した側の森、永田は強く、完全無欠で、殺された側は弱く、欠陥多い人物となる。そして強く、完全無欠なものが、思想的に弱く、欠陥多い人たちを教え、援助したことになり、この思想運動で強く、完全無欠な連中は、「暴力を導入する」ことで方法、手段を誤った、と言うことになってしまう。
 なぜ、完全無欠な人間が「暴力を導入したのか」の思想的原因を追求されると窮してしまい、この論理は破綻してしまう。
 そもそも、植垣が、森が、永田がどうして完全無欠であると言えるのか。殺された12名がどうして弱く、欠陥多いと認定できるのか。
 そもそも、認定するのは誰なのか。そして、その資格が何処にあるのか。とんでもないことである。
 指導部派、とりわけ森、永田が勝手に自己の日和見主義、保身から恣意的、政治的に勝手に決めただけではないか。
 「共産主義化」と題する、人騙しの、鵺のベ--ルを剥ぎとればこんなことは一目瞭善となる。
 それでは、「銃を軸とする殲滅戦は何処に行ったのか」「森、永田は心底から銃を軸とする殲滅戦を望んでいたのではないか」否、断じて否である。
 二人はそれを望んでいなかった!それは彼等が保身のための権力を維持する名文に過ぎなかったのだ!
 二人は「銃を軸とする殲滅戦」を声だかに言うことで、逆にこれをしようとせず、自己の延命、保身、延命の個人独裁権力を固めようとしたんである。そして、真に闘おうとした、それ故に二人を批判しようとした人々を何が何でも抹殺しようとしたのである。
 一体何処に「銃を軸とする殲滅戦の展望、計画、戦略--戦術が検討され、その為の体制強化、それぞれの任務、配置、これとの関係での主体強化が追求された痕跡が在るか!
 山本が免許証を落とし、それが猟師に拾われ、官憲に強襲されるのに如何に備えるかが下部から提起されたのに、森は言下にその準備を拒否し、アジトの移転を考えて居るではないか。
  森は、具体的な「殲滅戦」の計画と切り離して、観念的、精神主義的に「決意固め」を語り、同志を殺していって居るに過ぎない。
 正に「左」の格好をした、日和見主義ではないか。
 「日和見主義、個人主義故に"銃による殲滅戦"を掲げて、それをやらないために、"共産主義化"と言う無基準、無原則、無ゴ--ル、不可能な思想運動を提起し、みんなが死んで行く中で、二人になって延命しようとした。左翼日和見主義である。(花園)」僕の見解はこの見解にほぼ一致している。
「無原則な野合による"新党"結成、森、永田の個人権力を固めるために、その権力の桎梏になったり、反対する可能性のある部分を"殺し"で排除しようとした。(川島豪)」。この見解にも僕の見解は一致している。
 川島豪は「反米愛国路線の放棄」を問題にし、赤軍派も塩見も[野合」を問題にした。塩見は事件に対する大筋の見解を左翼日和見主義を確定していた。
 しかし細かい事実関係、責任関係の明確化、裁断を避け、野合「新党」の問題を問題にするも、自己反省、主体に照らして森、永田に凝縮された、赤軍派、革命左派双方の人間観、思想問題に決定的に弱点を有していた、プチブル革命主義と唯軍事主義の偏向を問題にし、労働者、人民の生活感情、要求、人民大衆の社会変革の能力への確信、或いは科学的なマルクス資本主義批判の獲得を問題にし、プロレタリア革命主義を目指した。或いは「大衆的政治闘争の中での武装」「人民の海の中での武装闘争」を追求した。
 これらの連合赤軍問題の構造、プロセス、責任関係については当事者自身が話さないこともあり、最初の十年近く事実関係については調査が進展しなかった。
 その後、永田、坂口、植垣等が裁判の進展もあって、事実を語ることが要請され、自己弁護の裁判方針を固めて行くべく3者が「当事者の声」と称して「本」を出版し始める。
 これは、これで当事者としての弁明の書として、それまで発言を封じられていた状況を打破し、人民大衆が客観的に判断する素材を与える意味をもっている。
しかし、これは永田、植垣は所謂「ブルジョア裁判に勝利する」ことが基本目的故に、それ故に極めて自己弁護、責任転嫁的なモノで、自分たちに不利なモノは隠されたりしていた。
  最初、「"ブルジョア裁判"と"人民裁判"は違う。その時は本当のことを言う」と弁解されていったが、いつの間にかそれが真実かの如く言動されていった。二人は、裁判で「死んでいった彼、彼女等にも問題があった」と裁判の場で2度目の12名を傷つける言説を振りまいたりもした。
 しかし、前述したように30年が経ち事実関係も出そろい始め、マルクス主義の呪縛に不必要にとらわれなく、より一歩踏み込んで総括できる条件がそろった段階で「連合赤軍問題」の真の原因、直接の原因、プロセス、構造が追求されるべき段階が生まれたと思う。
真の原因は依然として思想問題、人間観の問題である。しかしそれは政治路線、軍事路線、組織問題を通じて現れる面を持ち、この方面の追求と一体に統一的になされるべきである。
(3)永田、森の野合、「新党」への道
 永田の場合、明らかに一時退避、訓練場所としての山岳を根拠地と錯誤しそれを中国式根拠地論で正当化し、それを破壊するモノとして脱走者の向山、早岐両君を処刑にした。ここにスタ−リン主義が取り憑いて行ったと言えるが、これが卓抜な指導力の発揮とは決して言えない、ことは人民大衆から遊離し、その中での論争、政治を避け、人民の要求を汲み上げ、組織化し、隊伍を整えることなど念頭にないことで明瞭である。日和見主義、利己主義と言える。ここから人民解放、人民運動の大道から逸れていってしまったのである。自己の日和見主義、利己主義を指導力の発揮、指導権の確立、自己の権威化として、専制主義的に革命左派同志に押しつけて行ったのである。
 自己のこの権威を確立するには、他の自分より上の権威、獄中川島の権威と制動を嫌がり、否定てゆくのは自然の流れであり、永田はそれを森・赤軍派の力を動員し、果たさんとして行くのである。
 川島は獄に有りながら、直接的な指示を出し、永田はそれまでそれを権威にして指導権を獲得してきたわけだが、もはやそれを必要とせず、独立化しようとしたのである。
 
僕は、大局的な理論文書や「野合是か非か」の判断を示す文章は書いたが、獄から細かい戦術方針や組織方針を出すようなことはしてないし、それは適切でないと思っていたし、出来ないことでもあった。この辺の作風は留意しておいてもらえればと思う。
  ところで永田は、川島豪の自分への女性差別を言い立て、彼の「反米愛国路線」を赤軍派や森の理論を借りて批判していったのである。
 川島は始め「新党」を軽々しく提起するが、赤軍派の反対の中で、それを撤回するわけだが、永田はこれにも反発している。
 森は赤軍派が曲がりなりにも人民大衆と結合していたが故に、「よど号事件」弾圧の過程で赤軍派指導部となるが、永田以上に赤軍派の中では指導権は確立して居ず、赤軍派の中では様々な論争が、続いていた。
 決定的なことは、彼と同格か、それ以上の政治局員を含ん大菩薩軍事訓練の同志達が保釈出獄し始める段階で、森の指導権は決定的に脅かかされて行く。
 この意味で彼も又政治的投機、赤軍派からの分派衝動を高めて行かざるを得なかった。
菩薩グル--プの出獄を待ち、路線論争や「合流問題」を正式に提起し、論争を集約する「赤軍派総会」を召集する、ような原則的組織対応は思いも付かない。
 そればかりか、分派、野合「新党」でこの危機を切り抜けようとするのである。
 森は社会主義革命を堅持し、塩見の「民族解放・社会主義」路線で川島「反米愛国路線」を批判し、永田をオルグし、永田もこれに同調したフシが見受けられるが、詰め切れていず内容的な意志一致は獲得されていない。これは時間をかけなければ無理であり、一挙に出来る物ではない。まして、組織の合流ともなれば、いくら内容上正しいと思っても、無理であり、そもそも、内容を問題にすれば「山岳根拠地路線」は当然にも批判されるべきなのにそれは不問にされ、新左翼や赤軍派の政治生命である「粛清反対」のスタ--リニズム批判も又影を潜めてしまっている。そればかりか、その反対にそれを言葉とは別に、受け入れ、実行していったのである。
 永田、森が公的理由でなく、利己主義から焦り、無原則に無理矢理に、「新党」に走ったのは明白である。
組織の政治生命である政治、思想路線が軽視、放棄され、組織原則が投げ捨てられた分だけ「銃による殲滅戦」路線だけが強調された。だが実際はそれは名文でしかなく、それを真剣に検討する論議、戦術上の戦略、戦術議論がなされたフシはほとんどない。これに替わって圧倒的に「共産主義化」と言った「決意固め」の唯心的思想運動が提出されて行く。
 この「共産主義化」が永田、森の保身、利己主義から発する自己防衛としての野合の正当化、「新党」・永田、森権力の強化から発しているのは今となっては明々白々である。
 決して思想運動とか言った高等な運動ではない。それは自己権力防衛、強化の「逆らうモノを殺し、へつらうモノを優遇するする」と言った「粛清」に本質があった。「粛清」を覆い隠すベ--ルとして永田・森は「無基準、無原理、無原則なゴ--ルなし」のぬえの伸縮自在、変幻自在の面妖きわまる如意棒として「共産主義化」運動をでっち上げて言ったのである。
 森・永田はこの如意棒を振るうことで「党」員の生殺与奪の絶大なる権力を握っていったのである。
 何故殺されていった12名はそれを批判できなかったのであろうか。
それは政治組織を構成するみんなに合意された、公的基準たる政治思想路線、綱領を投げ捨て、組織原則を投げ捨て「新党」が「軍事」だけで成立したからである。逆に言えば軍事が至上とされて、安易に「新党」がでっちあげられていったからである。 
 この詐術に引っかかれば、もはや「党員」は抽象的な、極左の「共産主義化」要求に逆らえる武器をなくして行かざるを得なかったのである。又それ以前に中国革命教条の山岳根拠地路線、スタ−リン主義肯定の迷路に入り込まされ、2名処刑の迷路に入ることを強制されていったから、人民大衆と遊離してしまい、既に唯物論的な科学的判断能力を失っていたからに他ならない。
 更に根底を探れば赤軍派、革命左派、或いは新左翼に共通性としてあった「左傾肯定」
「分からなくなったら左をとれ」といった傾向から発する唯軍事主義、つまり個人主義や個人利己主義、実存主義の思想的弱さを人間主義、労働者主義、愛郷の民族主義、その集約としての人民大衆中心主義の哲学的営為、つまり人間自主や超暴力としての非暴力で批判する思想的哲学的力を持ち得なかったことがある。
(4)「粛清」としての「共産主義化」運動の展開構造、プロセス、「共産主義化」論のペテンを暴く。
 12名の「粛清」の事実関係についてはいろんな本で記述されている。しかし、必ずしもその展開構造を冷静に解析して言っている著作は少ない。僕のここでの課題はその分析とそこでの論点の整理である。
 日本の現実に合わない中国式政治路線、毛沢東山岳根拠地化と遊撃戦争路線の教条的適用、ここに原因するスタ−リン主義の2名処刑、永田指導権の確立、この延長、質的拡大としての野合「新党」創出、これによる永田・森の権力強化の為の「粛清」、この観点から展開構造、プロセスを明瞭にして行くことである。
 この展開構造、プロセスに野合・「新党」でっちあげの組織問題が決定的位置を占め存在しているのである。
 このことを踏まえれば、「同志的援助」「指導」と言った思想運動の形をとった、「粛清」政治のペテンは鮮明に暴き出されるのである。そうすれば「汚された12名の名誉」は復権され、暴虐の中でも革命の理念に忠節であった人々が存在し、その人人が単なる「犠牲者」ではないことがハッキリし、殉教精神を顕揚して行くことが出来るのである。
 何故なら、この12名の中に赤軍派や革命左派の本来の持つ革命的スピリットがあったのであるから。
「殺されたモノが殺している」「殺したモノが殺されている」「"共産主義化"をみんな承認していた。」「指導部派も被指導部派もない」「同志的援助」「革命戦士化であった」そしてその結論は「同志的援助であった」といった、かっては森がその上申書で展開し、それを今でも展開している、永田や植垣の「共産主義化」論のペテンは暴かれねばならない。 
 確かに「共産主義化」には、副次面として、「身を削り、人柱になっても闘おう」とする思想運動、自己反省、自己修養の側面があった。しかしそれは指導部派にあっては決して主要な側面ではなかった。
 このような"共産主義化"としての思想運動を真剣に実践しようとしていたのは指導部派ではなくて12名の被指導部派であった、ことを忘れてはならない。
 「殺し、殺される場を仕掛け、無辜の革命同志達を分断し、相い闘わせ、自己の権威、権力,権勢を高めていったのは森、永田ではないか」「殺された人々が自ら進んで、同志を殺したであろうか、トンでもない。全て指導部の指令ではないか」「"共産主義化"と言う"粛清"の手法を編み出したのは12名ではなく、森・永田ではないか」
 「殺し殺されているから共同意志としての思想運動だ」といって"共産主義化"論に騙されてはならないのである。
 「殺す気はなかった」と言うが、「総括に掛けられることは死ぬことである、だから指導部に逆らえなかった」と言っているのは植垣本人ではなかったか!
 尾崎君以外の死は 「死ぬことが分かっていて、総括に掛けようとしていた」のだから、これは「未必の故意」と言う殺人行為に当たる。
 「粛清」は新倉での合同軍事訓練時の永田の遠山美枝子批判とその森の受け入れ、による森の永田への迎合、一時の感情的盛り上がりからの安易な合流確認が出発点である。
 ここで永田の主導権が確立して行くのである。遠山の口紅や指輪はハイカ--を装った偽装であり、それを批判の口実にされるのはたまったモノでないが、永田にとっては遠山の存在は、見過ごしてはならないことであり、それ故に彼女を当面の自己の最大のライバルと見立て、執拗に攻撃したのである。森がそれを擁護せず、永田の批判を容認したのは遠山が獄中と繋がり、大きな影響力を持つ存在であり、彼自身にとっても、厄介で、ある面で危険な存在であり、永田はそれを知悉し、永田の森確保の分断作戦、「新党」への踏切、赤軍派からの分離の決意を森に強要する作戦となったのである。 
 加藤能敬と小島さんは何故最初に総括に掛けられたのか。
 「共産主義化」ということで、なにか客観的な理由があるのか、なんの基準もないのである。あるとすればそれは森、永田に随順するか、否かのみである。
 二人や尾崎が総括に掛けられた理由はキスしたとか、「痴漢行為を行った」と言う取るに足らないことではなく、川島豪の「合流反対」の意見書をもってきていたこと、三人が山と獄中を繋ぐ救援対策部であり、獄と都市の政治状況をよく知っており、永田、森にとっては内部的に一定の驚異であったからに他ならない。
外部的には野合「新党」の行動を獄に知られるのは永田、森にとって致命的な事態を産み出すからである。
 同じく遠山、行方も獄や都市を繋ぐパイプ役であり、最初に総括対象になったのである。進藤は赤軍派の頃から森と合わず、反逆的であり、総括対象となったのである。
 このように見てくれば、最初の3人、3人は明瞭にコソコソ逃げ隠れの、野合「新党」結成にまつわる、秘密の保持という純然たる政治的判断による、「粛清」と言えるのである。
 そして、それは赤軍派に対しては、永田が、そして革命左派に対しては森が分担しつつ、互いに他の力を殺ぐようになされているようである。
 最初の尾崎の死は意図的なモノでなかったようであるが、森がそれを「敗北死」と断じた時、「粛清=同志殺し」の路線は敷かれたのである。
 「語られざる連合赤軍」の高橋の伝聞では、このことは「日本革命戦争の基礎をつくって行く上でのどうしても回避する事の出来なかった高次の矛盾」と森は捉えているようだが、野合「新党」による森、永田の権力確立の為、と言う動機からすれば森、永田にとって当然の言いぐさであろうが、ナントたわけた身勝手な言いぐさではないか。 
 榛名山での6人の「粛清」が「新党」結成の外部関係の桎梏を断つ、意図でなされたとするなら、寺岡、山崎、山本、金子、大槻の粛清はもはや「共産主義化」のベ--ルなど投げ捨てられた、この「共産主義化」に反対し、森、永田の権力を脅かすような可能性をもっ人々内部関係へのあからさまな「粛清」と言える。
 寺岡、山崎は「反革命の分派分子」のレッテルをはられ「死刑」に処されている。
寺岡は一番強力な批判派になる要素をもった人であったのであろうし、金子、大槻も又永田のライバルになる人であった人なのでしょうし、山本は「批判」の言葉を吐いているのである。
 山田に到っては公然と森に対して「死は平凡なものだから死を突きつけても革命戦士にはなれない、考えて欲しい」と進言している。
山田は総括に掛けられた際「こんなことをして何になるのだ。畜生!」と言っている。
5節 10日間の浅間山荘「銃撃戦」
 森、永田は12名の同志を「総括」にかけ、11名が死亡し、山田の緊縛中に東京にカンパ集めに出かける。迦葉山の陰鬱な雰囲気、なんとなくの白けた気分からの逃避である。そして二人はそこで結婚をする。永田は坂口に離婚を伝える。
 坂口や板東はその間に独自な判断で山田の縄をほどき、裏妙義に移動する。3人が脱走する。
 権力と遭遇する中で、革命家集団としての「連合赤軍」のスピリットを蘇らせる。 闘う「連合赤軍」!雪の中の妙義越えと坂口等は10日間の浅間山荘籠城、銃撃戦。
 解放しなかったとは言え、条理を尽くした牟田泰子さんへの処遇と擁護。彼女を「取引」の
材料としなかった。不退転、非妥協、沈黙の銃撃戦。
 坂口等は死んで行った「身を削り、自傷して、人柱」になってでも人民解放、人間解放に挺身した12名の遺志に憑かれ、促され、「共産主義化」を反省しつつ、贖罪として闘った。
 この闘いは、「連合赤軍」が人民の側にあり、人間として行動してきたことの証であった。
又、同志殺しが「人民内部の矛盾」を正しく処理仕切れなかった、こととしての過ちであったことを示した。
「連合赤軍」「新党」は、永田、森の自己防衛から、焦って、じっくりした討議も積み上げず焦ってしまい、応急、即席に野合の「新党」をでっち上げ、その無理から、軍事、共産主義化を、その変わりとして全面に押し出し、決定的なやってはならない過ちを犯し、その過ちの根底の根底にあったひたむきで,凄絶な人民解放、人間解放の大空を飛翔する「ロマン」「夢」「スピリット」を歴史に刻み込み、力つき、僅か3ヶ月で潰え去った。
 僅か3ヶ月、同志殺しと銃撃戦の悲惨と栄光を歴史に凝縮し、駆け抜け、潰え去った。
 体制の不正義を忘れず、亡くなった12名を忘れず、今まだ獄で苦闘している人々を忘れず人民解放、人間解放の大道を進んで行かなければならない。

 

 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送