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30年目の我が「連合赤軍問題」総括           ------塩見孝也 

                  
目次  30年目の我が「連合赤軍問題」総括
◆1章 問題の設定
 1節 「30周年に際し、連合赤軍問題を考える集会」実行委員会を開催してみて
 2節 これまでのプロレタリア革命主義や「封建社会主義」批判らの総括過程とブント急進主義を「観念主義、主観主義」と矮小化し、それを連合赤軍問題に直線的にあてはめる清算主義者の見解
 3節 武装闘争の歴史的必然性を踏まえ、「連合赤軍はどのような限界」において敗れたか。
  ----超暴力としての非暴力思想、「覚悟」としての人間自主思想、人間主義/労働者主義、民族主義/の綜合としての人民主体思想
 4節 植垣の「殺すつもりはなかった。思想的援助をしようとした」 の「同志殺しの居直り」は許されない。 
2章 連合赤軍問題形成のプロセスとその節目、節目の問題
 1節 塩見の責任性について
 2節 7/6事件を赤軍派はどう総括したか
 3節 革命左派遊撃戦争路線の登場と印旛沼「処刑」、スターリン主義について
 4節 山岳「同志殺し」の「共産主義化」の発生とその軌跡、構造
          ------ー野合「新党」権力確立の為の「粛清劇」
    (1)事実の蓄積を踏まえた現象の本質的解明を
    (2) 無原則野合の組織問題の要素を入れると「養蚕主義化」の本質が良く分かる。
      ----「共産主義化」は2名「処刑」の延長にしてその質的発展であり、思想運動の衣を被った「粛清」である。
    (3) 永田、森の野合「新党」への道
    (4) 「粛清」の展開構造・プロセスから「共産主義」化論のペテンを暴く
 5節 10日間の浅間山荘「銃撃戦」
 
1章 問題の設定
1節 「30数年に際し、連合赤軍問題を考える集会」実行委員会を開催してみて

 7月17日、「30周年に際し、連合赤軍問題を考える集会」準備実行委員会が結成された。
旧赤軍派や革命左派或いはブント系の政派やこの問題の関係者、関心を持つ人々、若い青年達等準備をする人たちが集まった。僕は発起人として、この実行委員会や集会を提起した。
これから約4ヶ月弱各方面の人々に集まって頂いたり、意見を聞いたりし、集中的に総括運動をやり問題を煮詰め、他方で闘いに倒れた人々への追悼の想いや今も弾圧を受けている人々への連帯と行動を凝集していきつつ、この問題の正しい総括をやりきり、権力側に相当独占され来た「連赤総括」を民衆の側に奪還し、現政治状況の反動攻勢を打ち返そうと思ってのことである。
 「"共産主義化"と銃撃戦」としてあった連合赤軍事件以来30年が経ち、総括の主体的条件がある程度成熟し、様々な経験が集約されて行く場が提供されれば、それぞれが刺激されあい、よりトータルで正解に近い解答がなされるのではと思ってのことである。
 僕にとっても12名と改めて向かい合い、追悼する中で、自分の到達点を様々な人々と対話し、確かめ検証して行くことは、自分にとっても教えられるところ大であり、自分の総括運動の過程を連続的に捉えられるようになったり、判断留保点の穴を埋めたり、踏み込みきれないでいた領域に踏み込み始められたりし、この実行委員会運動は大いに役にたち始めています。何よりもこの問題を考えつづけている人達が存在し、この問題に関心を持っている若い人々がいることを確認できることは何よりも勇気づけられることです。
 若い人たちが現在の到達点から、この事件を批判的ながら、追体験的に理解し、より現在の到達点を深く、豊富に理解してくれ、現在の彼等の問題に回路付け、問題解決に進み出てくれるとすれば僕にとっても望外の果報である。
 この問題は新左翼運動の主流とも言えるブント運動から生まれたり、毛沢東思想、いわゆる "正統派" 日共系の中国派から生まれた点でも規模が大きく、三つの安保闘争の中の三番目の闘争の頂点であったことからして戦後史を画し、しかも戦後世界体制の犠牲的基底であった植民地体制を打ち破るベトナム解放を巡る反帝国主義、反植民地体制打破の世界人民運動の一環であった点でも世界史的意味をも有している。
 であればそれに照応するモノとしてこの事件の総括は規模が大きく、底深く奥行きが広く根本的になることは当然である。
2節 これまでのプロレタリア革命主義や「封建的社会主義批判」らの総括過程とブント   急進主義を「観念主義、主観主義」と矮小化し、それを「連合赤軍問題」に直線的に    あてはめる清算主義の意見
   ・毛沢東教条主義、革命左派の要因を無視してはならない。
   ・ブント、赤軍派急進主義は如何なるもので、如何に総括されるべきものか。
 総括はいろいろな観点からなされて来たし、今もなされ続けている。
イ、革共同主義を批判的対抗軸としつつブント急進主義やその観念性、軍事至上主義を総括する観点
ロ、スターリン主義、毛沢東教条主義や野合の問題、或いは
ハ、運動、運動主体の階級的性格からプチブル革命性をプロレタリア革命主義に脱皮し、資本主義批判、労働者階級の生活要求、感情、階級苦を理解し、この階級の変革の社会的能力を信じ、これを培って行く問題
ニ、日本資本主義社会の特質、対米従属打破、反安保、国と民族の自主、天皇制的特質
と結びつけ反差別、人民の民主、自主と協同の社会性を養ってゆく問題、「封建的社会主義」の克服の問題
 これらの観点は基本的に正しく必要なことである。
 しかし、批判としての指摘は正しくても、それだけで終わってしまうような「批判的批判」の観点もある。批判的指摘の上でそれを克服する内容的観点が必要である。
ブント急進主義、赤軍派急進主義はその急進主義(ラジカリズム)体内に生来的とも言える形で体質化していた、負の側面、個人主義(個人利己主義)、実存主義、階級的性格に於けるプチブル性を階級主義に置き換えることなく、人間主義それ自体として克服する思想的問題、 或いはプチブル的空想的社会主義革命の意義と限界を止揚する、日本社会、日本資本主義社会の普遍性と特殊性を綜合した真に現実に合致した政治路線、組織と変革陣形(軍事の問題も含む)を確立する事に於いて、その中にあるエッセンスのラジカリズムを掬いだし、開花して行かねばならない。
 ラジカリズムとは根底的、本質的と言う意味である。
 或いは注意すべきは次のことである。事実関係に於いて、この問題にブント急進主義が働いていたとしても、事件を形成する極めて大きな要因に、毛沢東派、それもスターリン主義を奉ずる部分との野合の要因があったこと、そうであるある以上、単純にそれを無視して「ブント急進主義の延長」で裁断しようとしても裁断しきれない部分があること、このことは決して無視されてはならないのである。
  「共産主義化」として論じられている、「同志殺し」のおどろおどろしい部分は、ブンド的、赤軍派的急進主義の「雰囲気」とは違う、毛沢東的文革時の紅衛兵の「つるしあげ」「引き回し」の残酷さを越えたスターリン主義の個人崇拝-人民裁判-殺しとしての粛清のより凄まじいおどろおどろしさ、残酷さが漂っていること、或いは革マル主義の「反スタ・スターリン主義」の党至上主義が見受けられることを留意すべきである。
 森思想には毛沢東的な性格も持つがスターリン主義政治を奉じる永田の「粛清政治」を彼流の右翼体育会的シゴキ思想、良く言えば日本的な武士道思想の「清明心」獲得の修養思想で覆っていた側面があり、ブントや赤軍派の組織性に於ける自由主義性を見限り、清算するものとして革共同的リゴリズム、党至上主義をスターリン主義の「鉄の規律・一枚岩主義」と融合させつつ持ち込んでいた事実があることに留意すべきである。
 これらを「ブント急進主義の極限」などとすり替えられてはたまったものではないのである。
 このように、安易、軽薄に「ブント急進主義」を捉えるとすれば、ブントと赤軍派への侮辱と言い得る。 
 ブント・赤軍派の思想はあの69年11/5大菩薩峠に結集して遺書を書き残して、首相官邸武装占拠を目射せんとした60数名の人々に体現されており、 「よど号」闘争の田宮達に現れ、リッダ闘争に現れた奥平、安田、岡本に現れていた、と言わなければならない。 僕は(イ)や(ロ)を総括視点に押さえつつ、主として(ハ) の問題を総括内容の視点に据え約8〜10年近く活動してき、その後これを踏まえつつ(ニ)などを強調してきた。
 いずれも、これらの課題はマルクス主義のパラダイム、思考枠に基づいてのことである。
 このプロレタリア革命主義、「封建的社会主義の克服」の観点は僕の思想的営為に置いて今でも骨がらみの根幹にずっと今に至るまで座り続けている。
 そして、この5〜6年それを踏まえつつも決定的な質的次元に一歩踏み込む必要を痛感し、その機軸に人間自主の思想、非暴力思想を据え、これをベースに階級主義と一体の民族主義を新たに加えた人民主義、人民主体思想を考えるようになった。
 このような基本観点、機軸を持った「マルクス主義の脱構築」を考えるようになった。
3節 武装闘争の歴史的必然性を踏まえ「連合赤軍はどのような限界に於いて敗れ
たか。あるべき武装闘争とは?」--ー「覚悟」としての人間自主思想、人間主義/労働者主義/民族主義/の綜合としての人民主体思想、超暴力としての非暴力思想いずれにしても僕が総括運動で闘ってきたのは、次の二つの見解である。
A,70年安保闘争、反ベトナム侵略闘争に於いて運動の政治的性格、運動の攻防プロセスからして武装闘争の歴史的必然性があったこと、この歴史的必然性を踏まえた上で、どの様な武装闘争が闘われるべきであったか?
「連合赤軍はどの様な問題、欠点、限界に於いて、それに敗れたか」と言うことが基本的な総括の問題設定であり、武装闘争の歴史的必然性はなかったとする見解には与しない、と言うことであった。
 武装闘争をやれば必ず粛清や「同志殺し」や「粛清」、「粛清」=「同志殺し」の反動的思想運動、「共産主義化」が伴う、というのは謬論である。
 外部の人民を「誤爆」したり、敵に必要以上の残酷な仕打ちをしたり、民間人を「誤爆」したりする過ちも又犯してはならない過ちであるが、味方のそれも同志を「殺す」のは如何なる位置づけであろうとやってはならないのであり、「変革主体」が如何に変質、腐敗、荒廃、錯
乱しているか、してゆくか、の現れとも言える。
変革主体を自認するモノであればあるほど、絶対に犯してはならない過ち、と言える。
 「同志殺し」など無くても、人民大衆を鼓舞する闘いはやれたはずであり、現にそれに近い闘いはなされた。
 「よど号」闘争も、「人民を盾にした」過ちはあったが、人民を鼓舞したし、革命左派の柴野君達の12/18闘争もそうであった。酒井同志の6/17闘争もそうであった。民間人を巻き込んだ面はあったが、それは無差別なモノでなく、管制塔占拠の攻防の過程で発生した
、国際主義精神に溢れたリッダ闘争しかり、渋谷暴動での星野君の闘い、9/16三里塚東峰武装闘争しかりである。磯江君の非道警官誅殺闘争、黒ヘル諸君のツリー爆弾闘争
、しかりである。
 しかし家族を爆殺した土田警視総監邸の闘争、「反日武装戦線」の民間人を巻き込んだ
爆弾闘争などに典型なようにこれらの武装闘争も又幾つもの根本的欠陥、限界を有していたのであり、このような欠陥、限界は克服される必要があった。
  或いは「内ゲバ戦争」を伴った中核派の武装闘争も又思想的、政治的限界を孕むモノであった。
 「連合赤軍」はこれらの武装闘争の中でも、より本格的な武装闘争、「正規の人民軍」による「銃を軸とする殲滅戦」、本格的な「遊撃戦争路線」を標榜、追求した。
 このような性質の武装闘争路線の貫徹のためには、その主体に極度の思想的緊張と修練を要求することとなり、その課題に連合赤軍指導部は正しく答えられなかった。
 暴力による殺しを伴ったスターリン主義恐怖政治、スターリン主義的「修養論」の
反動的「思想運動」を持ち込み、同志を「亡きものにする(殺す)」と言った変革主体形成でのやってはならない基本原則から逸脱することで解決しようとしたのである。
 ここに武装闘争派の思想的政治的、軍事的、組織的、変革陣形上の過ち、弱点が集中的に露呈、暴発したと言える。
 本格的な武装闘争、銃で武装した正規の軍、建軍を目指す変革主体に於ける過ちゆえに、しかもその過ちに烙印されてー決してそれは「粛清」の延長線上に実現されたモノでなく、その自己批判の上に実現されたモノであったがー正に「銃による殲滅戦」が貫徹されたが故に、その過ちの社会的衝撃は倍増され、甚大で人民運動を一挙に大後退させてしまう結果となった。
 だからこそ武装闘争をやる上での、正しい思想路線、政治路線、軍事路線、組織建設、それを踏まえた変革の総陣形が追求されるべく「連合赤軍問題総括」が30年たった現在でも問題にされるべきなのである。
 時代が変わり、僕は現在「非暴力」を主張している。
 しかしこの「非暴力」は当時の「人民の革命的暴力」の歴史的意義を清算、否定している訳では決してない。
このような70年闘争に於ける武装闘争の意義と限界を超克する観点として、超暴力としての非暴力を主張しているのである。僕の「非暴力論」は「正しい武装闘争の思想、政治路線」の追求と超克の結果導かれたモノであり、「革命的暴力」を排除しない。厳格なる正当防衛の上に追求される、べきということを排除しない。
 と言うより、人民の最も基本的な本性的権利,自主権の擁護の為に、暴力を越えたような厳しく、真の意味でラジカルな非暴力の政治の闘いが徹底追及されるべきこと、つまり「超暴力としての非暴力の政治」が追求されるべきこと、を主張しているのである。
 言い換えれば、あの酷寒の山岳での「共産主義化」運動に真正面から答えんとして亡くなっていった12名の戦士達に代表的、萌芽的に体現されていた人間自主主義、階級主義、民族主義を綜合した人民主義、これと一体の「人を殺さず人と人の関係を変えて行こう」とする暴力を越えて変革を目指そうとする思考、その逆説、背理として敢えて「殺すこと」を承認せざるを得なかった思想的営為の重み、重い々思想的試み、もがきの捉え返し、対象化として述べているのである。
 その人々は戦後民主主義、反戦平和、基本的人権、主権在民、より良き生活を目指した
戦後人民運動の担い手、世代の最良の部分である。
 人を殺すことを絶対的に忌避することをもっとも純粋に幼い頃、教えられ、信奉した人々であり、長じて「人を殺さざるを得ずしては社会悪をなくせない」ことを知り、不殺生と殺生の矛盾に悩み、もがき敢えて武装闘争を受け入れ、にもかかわらず殺さないことを忘れず、「あるべき武装闘争」を真に追求した人々と言える。
 「あるべき武装闘争」は暴力を越える非暴力思想を基本ベースに本質的に据えており、このような基本ベースを「超暴力としての非暴力」として意識化し、継承しようとしているのである。
 指導部は「銃による殲滅戦の覚悟」を、自らの個人主義、個人利己主義、実存主義の下に「精神主義的決意」として提出した。敵を殺すことは翻って殺されること、死ぬことであり、その覚悟を要求した、のである。
 個人主義は「単独個」「個我」であり、「人と人をかける橋は無い」モノと思い、隣人は他人であり、「利用のための手段」「け落としの対象」であり、集団もそうである。であれば「集団は支配のための権力獲得の対象」としてあるのみである。
 ここでの「武装闘争の覚悟」は弱肉強食の競争世界でしかない。このような思想、関係世界では生命の重さ、人間の尊厳、人間の自主性、協同性は後景化するか、どこかに消し飛んでしまう。革命の信念は宗教的神秘主義にとって替わられてしまう。
 人の死生の覚悟は「その人がどれほど隣人から必要とされ、信頼され、愛されてきたか」「所属する集団から必要とされ、信頼され愛されてきたか」に因る。或いはこのような関係性を普段から作ってきたか、そのような関係性を変革してきたか、に因る。
 人はこのような人と人の関係性、人と集団の関係性の充実度、十全性において死ぬことを覚悟するし、自然なモノとしてその覚悟をする。
 物質だけの問題でも無ければ、精神の問題でもなく、唯物論を踏まえるにせよ、唯物論と唯心論の二項関係を越える人間の自主性を原動力とする関係性の変革の問題である。
 「士は己を知る者の為に死す」と言うことである。「人間は自主性を持った社会的存在」なのである。
 このことは「人間を社会関係の総体、階級関係であり、階級性に烙印されている」(後期マルクス)でもなければ、「自然と人との関係に於ける、(労働の)受苦的関係としての疎外」と言った宗教的な性格を帯びた疎外論(初期マルクス)でもないのであり、「人と自然の関係」「人と人との関係」を綜合した「世界(自然、社会、意識)に於ける、人間の地位と役割としての自主性、協同性を人間性の本性と見る」人間観である。
 「覚悟」の問題は「同志愛」の問題であり、隣人愛、同胞愛の問題であり、変革に於ける恋人、家族、友情の問題はその関係性においてクリアーされる問題である。
指導部はその共通性としてある自主と協同性、信頼と愛の関係を目的に向け押し広げる
のではなく、支配のために、そのなさを強調し、「階級的献身度」の違いを押し広げ、敵対矛盾化していった。
 隣人関係と集団に於ける、隣人の自主性を如何に伸ばすかに於ける、関係性の変革、非暴力の関係を打ち壊し、消滅させようとしたのである。
 労働者階級は資本主義の下で搾取、隷属され、資本関係を憎み、それを変革、打破し経済的平等を実現せんとする。しかしその為にはその階級的同胞の関係、階級集団での隣人愛、諸個人の集団の中での適材適所を確定し団結しなければならない。これは、資本関係から独りでに発生するものでなく、人間自主の人間観がなければならない。或いは労働者階級以外の他の階級との自主と協同を通じ国や民族に於ける責任を果たさなければならない。人間自主主義、階級主義、民族主義が綜合される人民主義を創造することで始めて変革主体となり得る。
 マルクスは階級主義の問題は強調したが、その底の人間自主主義は言わず、階級を成立させている民族への責任、その自主化は言っていない。 
 12名が本質的に持ち、萌芽的に現れていた自主思想と超暴力としての非暴力の思想は
5人の指導部派兵士の自己批判としての浅間山荘銃撃戦の中にも現れ、他の連合赤軍の
人々の中にも現れ、指導部森、永田さんの自己批判の中にも現れていた、とも言える。
我々はこの思想をその反面教師の個人主義、個人利己主義、実存主義を批判し、現在に回路付け、意識的に対象化し、継承、定着化しなければならないのである。
 この思想的営為の中で、武装闘争と大衆的政治闘争、労働運動、その他の人民運動との結合が目指されるべきであった。
 又この歴史的必然性は客観条件と主体的条件が綜合されて判断されるモノであるから、どんなに長く見ても75年のアメリカのベトナム侵略終結までであり、それ以降は平和的闘争に路線転換されるべきである、ことも前提にしてのことである。
4節 植垣の「殺すつもりはなかった」「思想的援助をしようとした」の「同志殺し」の居直
りは許されない。
B,[同志殺し」を「粛清」、粛清と居直り、何か大義のために無私で「献身」したかの如く振る舞う見解、曰く「自分は殺すつもりはなかった」「上から言われ思想的援助をしようとした」として森・永田の自己保身、延命のための反動的思想運動に荷担して、自らも保身と延命のために「同志殺し」を推進したことを隠蔽せんとする見解、或いは、この「粛清」、粛清があったが故に「銃撃戦が貫徹された」とする見解、総じて最近テレビなどで華々しく流布されている植垣の見解である。
 この植垣の見解に同調するほんのごく少数の見解は前述の武装闘争の歴史的必然性を否定する清算主義の見解が権力の反動攻勢と絡みつつ跋扈し、正しい総括がなされ切れていない裏鏡的所産と言える。
 「"共産主義化"の中で身を削り、人柱になっても闘わんとした」亡くなった12名の行為を始めとして、副次的にだが「連合赤軍の中にこのような側面があった」ことを抹殺する風潮に反発せんとする「敢えて極論」の類と言った方がこのような見解の存在意義を言い当てている見解ととらえるべきである。
 とは言え、30年たって正面からこのような問題提起がなされるとすれば、それは全く愚かであり、一体この人たちは何を学び、何を総括してきたかと問いたいし、僕は上記のことを踏まえつつも、物事の正邪、理非曲直を違え、殺された12名を再度傷つけ、殺すようなこのような見解とは断固闘うモノである。 
 「共産主義化」の反動的思想運動の中にこのような側面が含まれていたことは事実である、或いは指導部に付き従って行かざるを得なかった下部「党」員の弁明の気持ちは理解できるが、それはあくまで副次的な側面であり、主要な側面ではない。
 植垣はこのことをすり替え、自己弁護の正当化をやっているのである。
 吉野が真摯な反省をやり、金子さんを擁護・防衛できなかったことを金子さんのご両親に、それが「自分の中にあった保身、利己心」によることを認めてゆく態度をとっているのとあまりに懸隔があり過ぎるではないか。
 植垣は大槻さんの家族のところに詫びに行っているのであろうか。
 植垣の言いぐさ、態度は30年経ったとしても倫理的に見過ごされてはならないのである。植垣はこのような言いぐさ、態度を改めるべきである。
 同志殺しを粛清として肯定したり「共産主義化」を「殺す気のなかった援助」などと自己弁護の詭弁を言うなら、別に総括運動などやる必要がないのである。
 問題の設定は以上を概括すれば、武装闘争の歴史的必然性を否定したりすることで、或いは「粛清」を居直って肯定したりすることで、事件の根底にあった個人主義、個人利己主義、実存主義、それを克服する、あるべき武装闘争の課題やそのことの根底に据えられるべき思想、人間論としての自主思想や超暴力としての非暴力思想の思想に到るような思想的努力を回避したり、放棄したりする志向と闘うことである。
2章 連合赤軍問題形成のプロセスとその節目、節目の問題
1節 塩見の責任性について
 僕は連合赤軍問題が露呈した直後の1973年3月か4月、この問題の総括論争が沸騰していた時「百花斉放、百歌争鳴」を宣言し、赤軍派解体、赤軍派議長辞任を声明するまで赤軍派議長であった。
 そしてこの問題に主体的に迫り、その責任を議長として引き受ける意味で「元赤軍派議長」と言う看板を敢えて掲げてきた。「任務は情勢に帰し、総括は主体に帰せ」と言う態度である。
 僕の責任問題での態度の基本はこのような態度である。
 僕が自己批判しなければならないと思っていることは山ほど、細かいことを含めれば、ある。その中でもここでは今から見て、さい重要なことを二つほど挙げておく。
1,1つは思想上、理論上のことで、連合赤軍問題を発生させて思想的欠陥を防止出来なかった限界についてである。
 もう既に述べたが
人間観に於ける個人主義、実存主義的傾向を残していたことである。もとより、この実存主義はサルトルのようヒューマニズムやマルクス主義に連関していたものであるが人間自主主義的な物でなかった。つまり、人間自主主義、プロレタリア主義、愛郷主義を土台とする民族主義を融合した物に高め切れていない問題、正しい「覚悟」の観点、同志愛の観点で脆弱なところがあった。これと関連して超暴力としての非暴力の思想的、政治的、軍事的観点、思想がが弱く、
武装闘争の歴史的必然性を確認するもが故に、より思想的、政治的に慎重であるべきなのに、安易に「革命的な人民暴力」を賛美、ロマン化するようなところがあった。
2,二つは赤軍派は現代先進資本主義国に於ける現代革命をブントを継承し、ドイツ革命の総括など追求し、あくまでも「全人民的政治闘争に於ける中央権力闘争、地域に於けるマッセンストライキ」を原型イメージにこの政治を実現する要素として、軍事を設定して行く軍事思想をもっていた。この展開として「前段階蜂起」やその国際的条件、布陣として「国際根拠地」路線が定められていたのに、毛沢東思想・中国革命型の軍事にひきずられれてゆくような弱さをもっていた。勿論、それでも追求されていたの「社会主義の労働者人民大衆を依拠階級とした都市ゲリラ戦であったが、この現代革命の基本陣形を忘れかかっていたが故にこの「都市ゲリラ戦」は唯軍事主義的なものを含み、観念的な超唯軍事主義の革命左派に引きずられたのであった。
 それは、外の現場の森達の困難さを思いやりきれず、彼等を「左」に追いやって行くような無責任さを伴っていた。
 この基本態度を踏まえることは、70年安保武装闘争での赤軍派、ブントとしての提起者、総設計者、総プロデューサー、総監督として責任を取り続けると言うことである。
 そのことは、殺された12名を復権し、二度と同志殺しの過ちが繰り返されないよう身を正しつつ、事件の総括を続けること、そしてそのことに於いて事件の理非曲直、正邪について明らかにすべく闘い続けることを表明し続けることを意味する。
 但し誤解無きように言っておくことは上記「総」の付く性質に於いてであり、現場監督、現場設計者の個別な特殊な独立的責任を負う者ではないこと、個別責任は個別責任であり、それまでを総監督が負うのは逆に物事の理非をねじ曲げることとなること、赤軍派やブントの歴史的意義を歪曲したり、抹殺したりすることになりかねないからである。
 赤軍派はブントから生まれ、そこから大菩薩軍事訓練、首相官邸武装占拠を企図した戦士達が生まれ、「よど号」戦士達が生まれ、日本赤軍が誕生したのであり、連合赤軍を構成した森派はこのような赤軍派の一部が赤軍派全体の合意を得ることなく、非公然、私的に分派したグループと言える。その森派と永田を指導者とする革命左派(日本共産党左派神奈川県委員会、議長川島豪)からこれ又非公然に分派した永田派が分派し野合したのが「連合赤軍」の「新党」である。
 ある意味「現場監督」であった田宮や重信さんは独立し、自主的な赤軍派を乗り越えるような活動をしてきた、と言える。しかもこの人々は赤軍派のコンセンサスをえて、公然と独立していった。しかし森派はそうではなく、秘密に赤軍派全体の承認無く、勝手に分派したのである。そして悲惨な過ちを犯したのである。
 第一次赤軍派、大菩薩グループ、第二次赤軍派、よど号グループ、日本赤軍も又赤軍派指導部、塩見の思想、理論、行動の意義と限界を多分に受けており、その意義を継承したり、これを乗り越えた面も持てば、その限界を引きずっている面もある。
 そしてそれは、現場監督の善し悪しによってその活動の成果が決まって行く側面が強いのであり、そこでの総監督の現場監督の起こした問題での責任は、双方の責任の区別と連関をしっかり現実に即して分析されて認識されるべきである。
 森派は言いにくいことだが、田宮や重信さんとは違って「赤軍派の鬼っ子」の面が強いのである。
 永田や植垣は勝手に分派しておきながら、裁判の過程で「同志殺し」の責任を否定すべく、それまで塩見と交わした「12名の立場に立って総括する」と言う盟約を投げ捨て、「同志殺し」を一方では正当化し、他方では「森さんの指示に従った」「森さんは塩見さんの指示に従った」と言った論理で塩見に責任転嫁しようとしが、このような責任の有り様設定は見え透いたペテンであり、醜い逃げ口上と言える。
 ここでの塩見の責任は政治上や組織上のことでなく、思想上、理論上の分野に於いて何故森派を産み出すことを防止し得なかったか、と言うことである。
 この点、可成り「幸福論」で総仕上げ的に解明してきたつもりであるが、ここではこの分野での責任の区別と連関を明確にすることを念頭に於いて、「連合赤軍問題の発生のプロセスとその節目、節目の問題点」を追跡する中で、責任関係を明らかにして行きたい。 
2節7/6事件を赤軍派はどう総括したか
 第二次ブント総括は別の次元で必ずやらなければならない僕の仕事なのですが、今回は「連合赤軍問題」・赤軍派との関連することで、それも最小限に絞って語ることにする。
 なをブント総括については、ブント戦旗派(日向)の「理論戦線」にある程度の輪郭を語っておきましたのでそれをさし当たって参考にして下さい。
 赤軍派は第7回大会の主流派を形成していた部分がコアになっている。
 その時の路線は塩見が中心となって当時の諸意見を纏めた「過渡期世界論ー世界同時革命論」であった。又その時上京した佐野茂樹(7回大会議長)、旭凡太郎(政治局員)、高原浩之(学対部長)、田宮高麿(共産主義青年同盟書記長)、上野勝輝、竹内陽一、上田さん、森恒夫、久保田その他多数のメンバーは6回大会政治局員で学対部長あり、7回大会で
政治局員であった塩見が上京を要請したメンバーであった。このメンバーと在京の早稲田支部の村田、菅野、荒、花園、大下、本多、松平等や医科歯科大岡野、山下、中大、東大支部等のメンバーや塩見の盟友で当時関西地方委員会議長であった八木健彦や関西学対部長であった望月上史等の関西学生部分が中核となって主流派が形成されていた。
 ブントは当時8個師団と言われたようにある種の連合組織であり、このような主流派以外に幾つもの政治グループがあった。
 8回大会では仏徳二が議長となり、佐野・塩見達主流派を「労働者の組織強化と組織の建設の独自的強化」を主張し、批判した。この段階で塩見、佐野、旭等は政治局員に残留するも主流派からブント左派に退くこととなる。
 仏氏の主張は一定の意義を持つが、実際の指導力としては無きに等しく、迫りくる69ねんの安保決戦に何の方針も持たず、闘いは依然として7回大会派が担い、仏氏の労働運動サークル主義の弱点は露呈した。
 この労働者主義は10/21防衛庁闘争の総括として確認された「中央権力闘争とマッセンストライキ」の路線とも違っていた。
 10,21闘争の総括論争の継続に加え、69年4/28闘争の総括論争がそれに加わり、他方での破防法弾圧が加わり、ブントはガタガタになった。この状況に7回大会派は危機感を感じ「前段階決戦を前段階蜂起・世界革命へ」「党の革命、共産主義と軍事を組織する党への改造」の旗印を掲げ、第7回大会路線を忠実に実行しようとした。そのフラクションを他のブント連合諸派は
赤軍派」と呼び、7回大会派は自らを「赤軍派フラクション」と自称するようになった。
 このようなブント内の
路線闘争と小競り合いを調整するものとして7/6中央委員会が開催されることとなった。
 かかる事態の中で、中央委員会開催の場、明治大学、・泉校舎は赤軍派と「連合」ブントの路線を巡る激突の場となっていった。どのグループも前の晩から泊まり込んだし、ゲバ棒で武装する始末となった。
 赤軍派は指導力をなくした「中央」に代わって「中央を担う用意がある」ことを宣言し、これに備えた。
 泉校舎で仏氏を捕まえ、相まみえ論争し、自己批判を要求する過程で塩見は感情的になり、激し衝動的に氏にリンチを加える過ちを犯した。他のグループにもそのような過ちを犯した。それまで森君等「赤軍派フラック」に加えられたリンチや仏氏の路線や方針抜きの権謀と術策の「宮廷政治」の仕方への不満が爆発してのことである。
 塩見はその直後、自己の過ちに気づき個人として、他の同志と共に赤軍派フラックとして二重に自己批判し声明を出した。
 現在、改めて「この過ちをブント同志達に自己批判します。」
 又「赤軍派同志達にも自己批判します。」
 このことで、塩見等赤軍派フラックがブント主流派への返り咲きのチャンスを失ったのは返す返す残念なことである。
 その後、機動隊が包囲し始め、撤退が全体的になされ始めた段階で赤軍派も仏氏を擁護して撤退して行くわけだが、そして氏を仏グループに任せる過程で、機動隊が乱入し、赤軍派も仏派も氏を守りきれず権力に逮捕させてしまうこととなった。
 この点についても、仏派にも落ち度があったが、基本的には塩見と赤軍派に責任があり、真摯に当時自己批判したが、今も自己批判する。
 その後、塩見と田宮はホームグランドの医科歯科大に引き上げるが、軍本体と離れていた。そこへ叛旗派系中大全共闘が襲撃をかけてき、激闘の後、塩見、田宮、望月、物江等は捕捉されてしまう。
 中大に連れ込まれ、度重なるリンチを受け、、2週間後の脱出過程で望月が転落死
する。度重なるリンチで腕の力が弱まっていたことに起因する。
 この点についての味岡君や連合派の謝罪、自己批判を僕は聞いたり、見たりしていない。
 重要なことは、中大監禁、リンチの過程でも、その後も赤軍派は声明を出し、前段階蜂起路線を堅持しつつも仏氏リンチと氏を逮捕に追いやったことについて厳正に自己批判し、ブントに処分を仰ぐ旨対応したことである。分派,別党でなく、ブント復帰は赤軍派の基本方向であった。
このような立場で7/6事件に関係のない山田が「赤軍派フラック」の自己批判書をもってブント中央委員会に参加しようと会場に行ったが連合派は入れようとしなかった。
これは連合派の狭量と自信のなさを示す物であった。
 明大闘争の時の斉藤・大内の処分の仕方、7回大会時のマル戦派への対応の拙さと共通するブントの組織建設上の問題点の露呈である。この辺はブント総括の問題であり、ここでは省くとして、我々赤軍派フラックは真摯に自己批判したにもかかわらず、連合派が拒絶したので、やむなく分派せざるを得なかったこと、いつの日にかのブント復帰を留保し、別党、新党路線は取らなかった。ブントの分派と自己規定し、「ブント(赤軍派)」と名乗ったのである。
 森は野合「新党」結成の過程で、この対応が不徹底であったと批判し、「新党」を名乗り、、塩見達を批判したのだが、、このような対応は極めて重大な過ちと言える。
 第一次赤軍派では厳格であったブント組織原則は第二次赤軍派、森指導部派や分派
、「新党」を肯定した部分では単なる徒党集団の離合集散にまで矮小化され、スリ返られていってしまったのである。
 又路線闘争に伴う暴力の行使の問題はそれ以上深められなかったが、これは原則的に否定されており、、赤軍派がこれを居直ってきたとするのは全くの歴史の偽造と言わなければならない。
 森はその時トンコしていたが故にこの自己批判の深刻さを知らず、、手前勝手な解釈を施し私党「新党」を居直っているのである。又彼は永田のスターリン主義の「一枚岩の個人崇拝」の党建設観を許容し、革共同的党至上主義に乗り移って行ったことも留意しておくべきである。
 いずれにしても7/6の過ちの延長線上に「新党」リンチがあったとするのはこじつけと言わなければならない。
 11/5〜11/7の首相官邸武装占拠闘争の敗北の総括として、、赤軍派は武装闘争の永続性の条件を国際性に求め、「国際建設路線」を設定する。
 この路線は「主体建設をあくまで日本とプロレタリア等人民大衆に求める基本原則から可成り逸れる点をしっかり押さえ切れてないことが問題であったが」「過渡期世界論」の路線にしたがったもので、又彼我の攻防関係の現実に照らせば、迂回作戦であることを意識的に含んだ極めて妥当な路線と考える。
 ともあれ、赤軍派はこの路線で「よど号」闘争を貫徹し、武装闘争の現実性を示した。しかし権力の報復弾圧の凄さを計算に入れず、猛弾圧を受け、大菩薩の打撃と合わさり、第一次赤軍派は壊滅的打撃を受け、獄と国外に分散されてしまう。
3,革命左派「遊撃戦争路線」の登場と「2名処刑」に見られるその功罪、スターリン主
の現実は何であったか
 (1)革命左派とは
 日本共産党(左派)は日共(宮本)派が中国共産党とプロレタリア文化大革命の評価を巡って対立、絶縁状態になる中で、日共から脱党したり、除名されたりした毛沢東思想派(通称中国派)のことである。この部分は「毛沢東思想は当代最高峰の革命思想である」毛沢東思想は精神的原爆である」とか言い、毛沢東思想を高く評価し、それを日本革命の指導しそうとする部分である。東京、大阪、名古屋、山口、佐賀等全国に存在した。神奈川県にも存在した。
 毛沢東・中国共産党の影響力は当時、日本人民大衆に甚大な影響力を持ち、新左翼にも毛沢東思想を評価する部分が輩出した。ブントやブントML派である。    
 ちなみに第二次ブント系でもブント主義を前提にしてだが、毛沢東思想を評価する部分が現れた。関西では上野や塩見であったし、東京ではマル戦派であった。
 最も塩見達は毛以上にゲバラ・カストロに親近感を持ち、支持していたが。
 この日共(左派)の神奈川の部分から「警鐘派」が生まれ、日共から脱党した部分が合流し、日共(革命左派)神奈川県委員会が生まれ」、武装闘争派の川島豪と従来の「新聞発刊」を組織建設の要とする木下(川北)派に分裂しする。
 永田はML派系で最初木下に私淑し、川島や川北はマル戦派から流れてきたと聞いている。
 日共(革命左派)の下に京浜安保共闘や「反戦婦人の会」が作られ、学生運動の拠点としては横国大や水産大があった。
 木下は「連合赤軍問題」露呈以降「黎明」を発行し、後に大隈鉄二等と「労働党」を作り亡くなる。
 川島はML派との党派闘争以降人民軍創建を提唱し、米ソ大使館火炎瓶闘争や愛知外相訪米・訪ソ闘争を提唱したりする。
 以降革命左派は一路左傾し、12/18上赤塚署襲撃・銃奪取闘争、2/17真岡銃砲店
襲撃を行い、武装闘争派を牽引し、全体の運動の焦点となるが、川島豪の「遊撃戦争路線」に立脚してのことである。
 12/18の闘いと柴野晴彦の戦死、渡辺正則の負傷は日本人民に感銘を与え、柴野の国民葬が文化人達によって挙行されたりもした。
 しかし、2/17以降の弾圧によって、孤立し、いき詰まり、一時中国への退却論争を経て、山岳小袖のアジトをベースにするようになり、ここから脱出した向山・早岐を「スパイ認定」し、「処刑」する。
 こらは明らかに山岳ベースを権力に知られたくないところから起こった事件で、一時逃避、武闘訓練の場を根拠地に倒錯して行く認識との関連で起こった事件である。
 柴野晴彦は赤軍派に「連続蜂起・国際根拠地「路線を「待機主義」と批判し、「遊撃戦争路線」の採用を訴える。
 これに赤軍派内部から呼応したのが花園・松平であり、花園は12/18闘争を高く評価し、同時に思想、政治路線でも毛沢東思想、反米愛国路線を支持し、川島と同志的連帯を表明する。
 塩見が接見禁止を受けている間に二つの路線闘争が起こる。
 イ、国際根拠地路線をどう見るか。肯定か否定か
 ロ、「中央権力闘争ーマッセンストライキ」路線から発展していった「前段階蜂起路線を否定するか、肯定するか」の論争である。この論争は明らかに革命左派の影響であり、はなぞのはその代弁的推進者であった。
この主張は塩見の接見禁止が解ける197い年7月頃まで跋扈し、塩見がそれを批判するまで続く。その後も花園はこの路線に固執し「自由への道」を著し、「レジス・ドブレ」の「革命の中の革命」に依拠しつつ「合流、野合の路線」に固執して行く。
 獄中の川島花園路線を受けて、永田は「遊撃戦争路線」を様々な不満を持ちつつも推進して行く。
 (2)川島「遊撃戦争」路線、「銃を軸とする殲滅戦路線」を支える政治路線とは?
 川島はこの遊撃戦争路線を更に「発展」させ「銃を軸とする殲滅戦」路線を主張して行く。
 しかし、この川島路線は様々な点で毛沢東教条主義とも言える本質的欠陥、限界を持つ物でこの軍事路線が「連合赤軍問題」を爆発させた、と言っても過言ではないことを今こそ言わなければならない。
1,まず政治路線である。
 日本社会は対米従属ながら高度に発達した資本主義国である。70年当時もそうであったが、あれから30年経った現在このことは動かしがたい事実であり、ここから引き出される支持路線はマルクス主義風に言えば
 「反米帝国主義、反日本独占資本主義の国と民族の自主を目指す社会主義革命」の路線と言える。「反米、反従属独占の民族民主の変革から社会主義の連続革命」の路線と言える。
 対米従属を当時の新左翼系は「日帝自立論」の認識で、認めなかったが「いずれ日本はアメリカから自立し、対立するようになる」の認識は間違っていたことが現実で証明された。
新左翼系は対米従属から、資本主義でありながら日米関係に於いて民族的課題があることを確認して行くべきである。
 日共は「従属しているから日本は帝国主義にならない」と言っていたが、今はその従属下
、それを利用しつつ帝国主義的膨張を強めており、自衛隊は海外派兵をやり、侵略軍隊の性格を帯びつつある。但しアメリカ軍の従属軍隊として。
 この見地から、日共は「民族民主主義革命から社会主義革命へ」の伝統的な二段階戦略をとり続け、社会主義革命の性格を無視し革命の課題を「近代国民国家、近代民主主義国家」に低め、切り縮める改良主義の党に脱してしまっている。
 革命左派、川島豪の路線はこの路線に近く、毛沢東教条主義故に51年の日共綱領に近く、反米愛国路線も又中国直輸入で日本の現実に適した物ではなかった。
 丁度田宮や小西が朝鮮革命の「反米愛国」を機械的に日本の現実に適用したような過ちがあった。
塩見はこの空回り、反発を日本の現実にあわせるべく、対米従属下のグローバリズム高度資本主義国の民族問題、パトリオティズム(愛郷、愛族、愛国)に読替えて展開しえいるような内容は見受けられなかった。
 塩見は当時獄中で「合流の可能性」を探り、対米民族問題では可成り近い認識を確認したが、スターリニズムの「プロレタリア独裁下での粛清」についてはどうしても受け入れることが出来ず、その結果「合流をさし当たって見合わせる」判断をせざるを得なかった。
 この中国革命教条主義とスターリン主義が山岳根拠地路線や二人処刑、中世的、唯軍事主義的軍事路線を導き、凄絶な破産に帰結して行くのである。
(3)川島軍事路線の教条性と花園軍事思想との共通性、赤軍派軍事思想とは?
 川島路線は毛沢東の軍事路線のそのままの日本への適用であり、51年綱領の山村工作隊の路線より、より旧式でかつ極左主観主義なのである。
 何故なら、毛沢東の軍事路線は中国社会が「軍閥が割拠し、陣取り合戦の軍事が前面に出る半封建国、半植民地国の未だ市民社会が成立していない社会と国家がゼラチン状(アントニオ・グラムシ)の社会」に適合する軍事路線であり、このような中国社会では「反植民地主義の愛国心と反封建の民主主義闘争を、農民に依拠し、農村から都市へ」の路線が導かれる。毛沢東はその路線を発見し、創造していった。 
 しかし、日本社会は明治以降の戦前でも曲がりなりにも市民社会は成立し、戦後60年代以降は国家独占資本主義社会で市民社会は成熟して行き、「社会やその国家の結びつきは膠状(上記グラムシ)」となり、変革は「都市の労働者津社会旧に階級に依拠した、中央の権力を巡る全人民的な政治闘争と市民社会の底部の生産関係と再生産関係でのマッセンストライキやゼネスト」の変革陣形」となり、このこの政治、思想路線を阻む人民大衆が主人公となった政治的闘いとなり、闘いは「政治、思想」第一の争い」、とりわけ知的、道徳
的な要素が決定性を持つようになる。このような人民の側の闘いを阻む体制側の暴力に対して、あるいは民間の反動勢力に対して、その圧力から自衛し、それを跳ね返す人民勢力の側の実力暴力「レッド・ゲワルト」「エル・ゲー(赤衛軍)」となる。
 赤軍派はこれらのことをドイツ革命の総括から学び、当初それを「共産主義突撃隊」と名
付けた。
 このような点で赤軍派と革命左派では根本的とも言える軍事思想の違いがあった。
 花園は本来政治軽視で鹿児島出身故戦国大名や薩摩や西郷の軍事が下敷きにあり、この点で川島と一致し、その「水滸伝」「三国志」的剛勇で尊敬もされれば、政治局で孤立もしたのである。
それが塩見の接見禁止中に頭をもたげたのである。
(4)スターリン主義の粛清思想に、無批判な体質
  毛沢東思想にはスターリン主義を許容する内容があり、毛沢東は本来スターリンの「個人崇拝ー人民裁判ー粛清」と言った強権的、行政主義的政治を否定する、悪風の思想的根元を抉り、その思想を批判し、大衆的思想運動で人民の隊伍を整える「整風運動」問い言った良き作風があったが、川島の作風はそれと反対のスターリン主義を感じさせるところがあった。
それは、僕との文通の過程で使われた「整風」の意味合いが「粛清」意味合いを有していた
ことや連合赤軍問題露呈後革命左派の同盟員である雪野が永田の「粛清」への意見を聴いた時、「(同志殺し)はゲリラの鉄則を守ったのでは」と言った言質にも窺れた。
 僕は推論だがこの考えを2名処刑に忠実に適用したと思われて性がない。
 この粛清思想がまだ
永田と川島が訣別していない関係下で永田を通じて2人「処刑」に発動されたと思われて性がないのである。
又この粛清思想が野合の過程で森の反動的シゴキ修養論に乗り移り、合体し全面開花したわけである。
 永田は例によって、「死人にくちなし」で森に責任転嫁しているが、これは永田の自己防衛の常套手段であり、、実際は川島との相談で出てきた判断を打診したのではないか。
(5)赤軍派の「都市ゲリラ路線」への徐序の転換
 森赤軍派は獄中の花園等の要求に応じず、「よど号」闘争の大弾圧をナントか乗り切り、森体制を確立してゆく。これは71年前半の「連続蜂起ー国際根拠地建設路線」を堅持している「赤軍」第7号機関誌に明らかである。この路線でM作戦や6/17闘争を闘い、板東隊は山谷等寄せ場を拠点に「都市ゲリラ」として行動している。徐々に革命左派「遊撃戦争路線」に影響されつつも「連続蜂起路線」を修正して言っている。
 このころ赤軍派はスパイ処刑の誘惑にも勝ち、軍事作戦としては欠陥だらけながら大きな決定的過ちを犯さずにいる。森体制の安定期であり、このころの彼等の頑張りは評価されるべきである。
 しかし、森はこの路線をしっかり固め、より大衆化し、同志達の自主的行動を伸ばし、依拠基盤を徹底的に労働者大衆に移してゆくことなく、徐々に拠点からの召還、集中主義で永田山岳根拠地路線に引き寄せられて行く。
 塩見は71年7/15裁判開始後接見禁止が解かれる中で川島、花園の「毛沢東教条、合流」の路線を批判し、「統一赤軍」を「連合赤軍」路線、共闘路線に改めさせる。同時に「前衛の軍人化(機関誌も発刊するが)」「社会主義都市ゲリラ路線」を」主張し、他方で毛沢東教条主義の「反米愛国路線」を「民族解放・社会主義革命」の路線を対置し批判して行く。
森はこの「民族解放・社会主義革命」の路線を革命左派や永田を批判したようであるが、植垣・永田はここで一言使われていた「共産主義化」と言う獄中で「自主平等で助けあって
、自己点検して行く」意味合いで大衆化されていた用語を森流にシゴキ修養論に解釈し、指導者が軍事の先頭に立てるほどに軍事に習熟することは「党至上主義」でやらず、勝手に使っていったようである。この「党至上主義」が後に永田のスターリン主義の党組織論と合体して行き、指導者を絶対化して行く。
 いずれにしても、よど号以降の70年末から71年にかけて「川島遊撃戦争路線・銃を軸とする殲滅戦路線」と言ったブントや赤軍派には言語的に違和感を巻き起こす路線が全局を先導し、赤軍派や森は引きずられていっているのである。
この路線が都市の人民大衆からの遊離を極端に進行させ、、山岳を根拠地と見立て、すたーりん主義的妄動の二人「処刑」に結末し、更には致命的、決定的な「野合新党」、12名「粛清」の大破綻に爆発して行くのである。この文脈はしっかり押さえられておくべきである。
 川島路線は70年よど号闘争以降の停滞を打破し、70年以降の武装闘争の激発、71年の大衆闘争の高揚を導き、最初革命的生鮮さを与えたが、それは日本の現実から遊離しているために後が続かず、はやばやに行き詰まってしまい、致命的破綻を招来させることになる。
 塩見達獄中は「連合赤軍」主力が山岳に隠れ棲んでいるなど夢にも知らないことであった。
 (6)二人処刑をどう捉えるか
  向山、早きさんの「処刑」を受け入れるか、それを拒否し、批判するかは根本的な価値観、革命の価値観の問題である。人間解放をどう捉えるか、の革命家それぞれの人間観の問題となる。それはどの様な政治路線、変革陣形を敷くかを遙かに越えた、普遍的な価値観の問題である。
  もっと広く言えば、その社会がブルジョア社会か、否か、社会主義社会か、否かの如何に依らない、人民大衆が住んでいる社会がどの様な人間観、社会観を持つべきか、ヒュウマニズムをどう捉えるか、と言う宗教観をも貫徹する社会生活の根本的規範、倫理を何処に求めるかの根本問題である。
 そして、それはスターリン主義と粛清をどう見るのかに直結する問題である。
我々ブント・新左翼がスターリン主義やスターリン主義日共と訣別したのは、この粛清を拒否するところから出発したのである。粛清を肯定する人間観を拒否し、新しい人間観、社会観をを確立すべく誕生したのである。赤軍派もこの思想的流れを継承、発展して行くべく誕生したのである。だからこそ、7/6の際自己の自然発生的な感情に流されたリンチを厳しく反省したのである。
 森も又最初「処刑」を批判し、「永田達はもう革命家でなくなっている」と非難したのである。或いは板東、植垣は一時森の「処刑指令」を無視したのである。
 人民大衆は殺さない。分けても同志は殺さない。敵に対しても戦闘以外やたらと殺さない。非戦闘員は殺さず人道的対応をする。人間愛、非暴力を根底において戦争原則「敵を消滅させ、味方を保存する。」を考えるのである。「軍事の自然発生性に拝起きしない」は7/6以来の戒律であった。
 スターリン主義はこの人間愛、同志愛を軽視し「プロレタリア独裁下での敵と味方の境界線」を恣意的に操り、利己主義、自己保身の為に人民権力を個人独裁権力に置き換えるべく、「個人独裁ー人民裁判ー粛清」の反人間主義的恐怖政治を実行した。その政治は一時期ソビエト権力を延命させたが、最終的にはその社会を崩壊させていった。
 カストロ、ゲバラにせよ、毛沢東にせよ、味方のどうしても許し難い決定的裏切りには断固たる処置を採ったが、日和見主義や捕虜などには寛大に望み、食料を与え、退散させるような処置すら採り、極力殺さないようにしている。
本来暴力革命や人民戦争はこのような在りようが模範であり、道徳的高さが追求されるのである。
 自主意識の高くなっている、先進資本主義ではブルジョアジーすら死刑を押さえ、まして人民大衆の側は判然としない「スパイ容疑」などで人民を殺すなど絶対に許されない野である。
 永田は「中国亡命路線」を批判され、政治・軍事路線を行きつまされ、「大衆に依拠する」など思いもよらず、切羽詰まり、小袖の山岳ベースを自己保身から、一時の逃避場所、軍事訓練の場所から「根拠地」路線に位置づけなおし、その根拠地の権力を守るべく、前沢等の反対を押し切り、二人を「スパイ認定」し、「処刑」を行った。二人の「スパイ認定」の科学的根拠の追求などに全然慎重でなかった。
 そもそも、何故山に来させたか、の反省が真剣になされたとは言えない。
 ここに於いて永田はスターリニズムを受け入れ、逆にそれを党派性にして専制化を強め、それを森に迫ったのである。
 赤軍派や新左翼を「軟弱」派と断じたのである。
永田は渡ってはならない「河を渡ってしまう」のである。ここにおいて、スターリン主義は復活するのである。
 この行為は川島との相談の上、なされた可能性があるが、又彼女が不運な巡りあわせで
指導部を引き受けざるを得なかったこと、貧困労働者家庭出身で女性差別を経験し、脳腫瘍の病気を抱えていた等の同情すべき要素が多分にあるが、逆にその怨念をスターリニズムの「弁証法的唯物論」の「タダモノ主義的人間観」、「粛清論」と彼女の割り切りスタイル、チャッカリズムを融合させ、権力獲得志向で晴らすとすればそれはトンでもない間違いとなる。
 
「罪を憎んで人を憎まず」の格言があるが、永田さんの罪はスターリン主義として批判するが永田個人の人格を憎まない。


 

 
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