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連合赤軍問題総括の論点と見解(レジュメ風)---提案 塩見               (2/6)

2、「共産主義化」の反動的思想運動・同志殺しと浅間山荘銃撃戦をどう見るか。この連関をどう見るか。そして総括すべき問題はこの連関の質を見極め、この質を止揚するエッセンス、ガイストを見出すことである。

 ★「共産主義化---NO,銃撃戦--共感、理解」 
 「共産主義化」の本質、基本的主要側面は同志殺しであり、民衆運動に置いて絶対にやってはならない行為であり、これがこの基本原則に反することは言わずもがなである。
 銃撃戦については僕は肯定的に共感し、理解・評価し、限定的だが断固支持する。連合赤軍が人民解放、人間解放を根底に於いて求めていたことの証としては極めて高く評価する。
「共産主義化」があったが故に銃撃戦は貫徹された、と言う見解は否定されるべきである。同志殺し、「共産主義化」なしに銃撃戦が貫徹され、人民大衆を鼓舞する可能性は当時皆無では無かった、ことも確認したいと思います。
 一番留意され、現時点で強調され、その跋扈とも闘わなければならないのは、「"共産主義化"の過ち故に銃撃戦は全く無意義」とする、観点、主張である。このような主張とは徹底的に闘うべきである。これがブルジョアジー、権力、体制の典型的な観点、主張であり、民衆側が大混乱と閉塞に追い込まれた基本原因であると考える。

 ★「共産主義化」と銃撃戦の連関は歴史的、具体的にたどられるべきである。
銃撃戦は坂口・板東等5人の兵士が森、永田の制動から解放され、山田の批判を受け止め、縄を解き、自立することで始まっている。誤った決意固めとしての「共産主義化」ではあったが、その決意、闘志は同志殺しの贖罪、自己批判が原動力となり不屈、非妥協的に貫徹された。敵との遭遇が本来の革命家精神を蘇らせた。と言うよりそれを創造し始めた、言える。
 この戦闘や妙義越えの中に、死んでいった12名の革命家達の身を削り、人柱になっても人民解放、人間解放めざし「銃を軸とする殲滅戦」に挺身せんとする革命家、赤軍兵士精神、連合赤軍スピリットは体現されていった。銃撃戦は当時の人民運動の悲惨と栄光の両極を体現した連合赤軍の「栄光」の極と言わねばならない。
 牟田さんは戦闘が開始される前に人民戦争の基本原則に照らせば解放されるべきである。しかし、彼女に5人は意をつくして理解を得んとし、十日間の籠城戦の過程でも最大限
の擁護を行っており、最終局面でも身を挺して守らんとしている。

 ◆ 闘いに倒れた12名の殉教・英雄を中核として連合赤軍を人民の先進的戦士達として
復権しよう。
 連合赤軍は致命的な過ちを犯した。それが人民大衆の側にいかほどの甚大なる損害を与えたかは我々のよく知るところである。このことについてはもう沢山だ、と言うほど思い知っているではないでしょうか。むしろその側面だけを見るだけで良いのであろうか、と自問自答する時期に来ていることこそ自覚すべきではないでしょうか。
 つまり我々は連合赤軍のもう一つの側面もしっかりと語らなければならないのではなかろうか。 
 連合赤軍は致命的過ちを犯したと同時に体制側の非道な侵略と抑圧の政治に対して、最も鮮明にこれを告発し、身を賭して糾弾する人民の側の不退転の気構え、意志力、勇魂を示したのではなかろうか。それは不屈の浅間山荘銃撃戦で天下にあまねく示された。我々はこの側面を今こそ復権し語り明かさなければならない、と思う。
 分けても亡くなった12名の戦士達は文字どうり大義の為に一身を賭した殉教の英雄達だったと言い切るべきではなかろうか。僕たちはこの人々の行動を「非業の死」として悼むだけではなく、大義のために身を削り、人柱になることも覚悟し、生命をも捧げた人民の英雄的戦士として称え、語り継いで行かなければならないのではなかろうか。
 五名の山荘赤軍兵士をはじめとする亡くさせる側にあった人たちも、過ちを犯したとは言え、まごうことなき人民の先進的戦士であったことを何処の誰が否定出来るでしょうか。
 我々は「過ちを犯した人々」と見るだけではなく、これらの人々の全体像がまごうおことなき献身的な人民の先進的戦士であったことにスポットを当てなければならないのではないか。 

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